ゆかりのある大学の学園祭に行ってた。楽しかった。
お店でものを買えば、お店の子が待ち時間に気を使ってくれて、盛り上げてくれる。どこに行っても、盛り上げてくれる。自分が自分じゃないような感覚になる。
学生さんたち、若い。パワーが違う。何事にも一生懸命で、羨ましかった。遠い昔のことを思い出し、感傷に浸る。
あるステージを拝見させていただいた。ステージ上、全ての演者の子たちの髪色は、さまざまで美しかった。ステージを見ている観覧者の子たちの髪色もだ。自由の象徴のように私には見える。
大部分の人たちは日本人で、地毛は黒色だと思う。高校生の頃までは、髪色もいじれなかっただろうに。生まれつきメラニン色素の量が少なくて、地毛が茶色の子は黒髪に染めるように指導されている高等学校もあると聞く。高校生までは、みんな同じ様な髪色、同じような制服を着せられて、校則で縛られて・・・
日本で自由を謳歌できる学校は、まだまだ少数だろう。
日本は小学校いや、幼稚園や保育園の頃から集団行動を強いらされる。集団行動が苦手な子のことはあまり考えてくれないかもしれない。
集団行動を強いるのは、「管理しやすいから」という大人側の都合だ。学校教育も然り。出る杭は打たれる。とのことわざにある通り、少し個性がある子たちも小さいころから教育すれば、金太郎あめのように同じ人間が出来上がる。
この学校教育の仕組みについていけない子、意義を唱える子たちには学校に居場所はないかもしれない。
平均や標準は日本人が大好きな言葉で、みんなと同じことに安心感を得ている人は少なくないと思う。
日本人は生まれる前から、お母さんのおなかに居るときから、標準に安心させられる。妊婦健診時に、おなかの赤ちゃんの体重を測ってもらう。その時に「標準ですね。」という産婦人科医の言葉に安心する。いや、人によっては受精前から「標準」という言葉に安心するのかもしれない。
この世に生まれ出できてからも、「標準」がつきまとう。
日本には、母子手帳というシステムがある。この母子手帳には成長曲線や発育曲線といわれる、その子の成長を記す折れ線グラフ的なものがある。そこに大きく幅はあるけれど「標準」の目安がある。多くの母親、父親はわが子がこの幅に入っていることに安心するだろう。このシステムに助けられている人たちは、確かにいる。
しかし、わが子がこの「標準」に入らない母親・父親たちが、存在することを知っているだろうか?この両親の子どもたちなどは、一人ひとりが違っている。
わたしは「標準」=金太郎あめだと思う。生まれつき顔が違うように、一人ひとり違うのは当たり前だと思っている。個性豊かな人や自分の殻を脱した人がもっと多くなればいいと思う。そうなれば、標準や平均、みんなと同じという言葉の重さが変わると思うから。
童謡詩人の故金子みすゞさんも「みんなちがって、みんないい」と唱えている。
近年、新小学校1年生のランドセルの色が変化に富んでいる。個性があって、いいことだと思う。また、一部ではあるが高校生の制服の種類も多様化してきていて、脱!金太郎あめに向けての取り組みがなされている。各種関係者のみなさんにはお手数をお掛けするのかな?と思い陰ながら応援している。
今後の日本がどう変わるのか、楽しみだ。